岡倉天心

西洋の住民にとって、これらすべては満足の種であろう。彼らには、それとちがった考え方をするものがいようなどとは、想像もできないことかもしれない。だが、中国のおだやかな逆説によれば、機械は玩具であって、理想ではない。古き東洋は、今なお手段と目的とを区別する。西洋は進歩を信じているが、いったい、何にむかっての進歩であろうか? アジアは尋ねる──完全な物質的能率がえられたとして、そのとき、いかなる目的がはたされたというのであろうか? 友愛の熱情がたかまり、世界の協力が実現されたとして、そのとき、それは何を目的とするのであろうか? もしそれが、たんなる私利私欲であるならば、西洋の誇る進歩は、はたしてどこにあるのか。 西洋の栄光には、不幸にしてこの裏面がある。大きいだけでは、真の偉大ではない。贅(ゼイ)をつくした生活が、すなわち文化であるとはいえない。いわゆる近代文明を構成する個人は、機械的慣習の奴隷となり、みずからがつくりだした怪物に容赦なく追いつかわれている。西洋は自由を誇っているが、しかし、富をえようと競って、真の個性はそこなわれ、幸福と満足は、たえずつのってゆく渇望の犠牲にされている。西洋はまた、中世の迷信から解放されたことを誇っているが、富の偶像崇拝に変っただけのことではないのか? 現代のきらびやかな装いのかげにかくされている、苦悩と不満はどうなのか? 社会主義の声は、西洋経済の苦悶──資本と労働の悲劇──の声にほかならない。 ところが、その広大な地域で無数の犠牲者を出してもなお満足せず、西洋は、東洋までも餌食にしようとしている。ヨーロッパのアジア進出は、東洋にとって、野蛮でないにしても粗雑としか思えない社会思想のおしつけであるばかりか、現存のあらゆる法と秩序の破壊を意味する。西洋文明をもたらした彼らの船は、それとともに、征服、保護領、治外法権、勢力圏、その他さまざまの悪(ア)しきものをはこんできた。そしてついには、東洋といえば退化の同義語になり、土着民と言えば奴隷を意味するにいたった。